昨日は久しぶりに Tango Nuevo(タンゴ ヌエボ)をやったという辺りの
お話を書きましたが
今日は ヌエボ が登場した 流れに もう少し詳しく迫ってゆきます。
今日は ヌエボ が登場した 流れに もう少し詳しく迫ってゆきます。
タンゴ界の異端児と言われたAstor Piazzolla アストル・ピアソラのタンゴは
ジャズの影響が色濃く表れたものがあったり
エレキギターをバンドに加えたり
ブルースを思わせたり
と 同時に ピアソラ楽団のバイオリン奏者
アントニオ・アグリのクラシカルで繊細な音色 と
多ジャンルにわたった絶妙なバランスを持っていたからこそ、
ピアソラが92年に亡くなった後、これほど世界的に広まったと思えます。
もう何度もこのブログの中でも登場している
97年公開の 映画「タンゴ・レッスン」
例のシーン で使われてるリベルタンゴが Yo-Yo-MA です。
や、ほんと痺れます。
日本ではちょっと遅れて 98年頃かな?
サントリーのCMで使われて大ヒットしました。
その流れを受けて ゴタンプロジェクトのデビューが99年。
同年 99年には CITA でファビアン・サラスとグスタボ・ナベイラが
かなり斬新な群舞を見せ、
その流れで引きつづき2001年のCITA では
かなり斬新な群舞を見せ、
その流れで引きつづき2001年のCITA では
チチョも加わって ピアソラでの群舞エキシビジョンをしています。
これも すでに登場したことのある動画ですが
その群舞のほんの一部です。
何度でも貼っちゃう(笑)
その後、パリに渡った チチョや セバスチャン・アルセが
ガンガン ゴタンプロジェクトなどで踊ったことにより
音楽も踊りも どちらも ヌエボブームが広まりました。
特に、チチョとセバスチャンがヨーロッパで広めた影響は
かなり大きく、
パリ・オランダ・イタリアあたりで「初めてタンゴ習いました」って
人たちの多くが ヌエボからスタート ということが起きちゃったりして
なんともはや(笑)
ただ、その後、ナベイラや チチョが
「 へんな踊り方でクネクネしてたんじゃダメ。
ちゃんと基礎から古典的なタンゴのリードフォローを学んだ上でじゃなきゃ
へんなんなっちゃうよ」
みたいなことを 盛んに言ってましたけどね(笑)
でも、ほんとそーなんだよね。
切り離す必要はないけど、基本的なリードフォローが出来てないうちに
可動域の大きなガンチョや サカーダをクネクネと入れるのは
危険なだけだもんね。
と、まあ このように 本当に完璧な流れで
タンゴが世界中に広まっていったブームの火付け役として
ピアソラが存在していたことがわかります。
世間に認められる前に亡くなってしまわれたことは残念ですが
この役目のためにしては あまりにも多くの素晴らしい曲を残してくれました。
ブエノス・アイレスの中でも タンゴは流行の波が激しく
私がタンゴを始めた95年頃は ブエノス内でも まったくタンゴが流行ってなくて
街のCD屋さんでも タンゴのCDは奥で埃かぶってるような感じでした。
ミロンガだって じじーばっか でしたよ。ほんと。
なんでもそうだと思うのですが、文化や芸術というのは
若い人が面白がって関わってくるようになって広がりが生まれるものだと
思うんですね。
で、タンゴも ピアソラの絶妙な役割あってこそ
五反プ
あ 間違えた
ゴタン・プロジェクトが出てきて
チチョやセバスチャンがカッコよくて
若い人が一気に増えて・・・
それで 99年あたりから タンゴ文化は世界的に
大きく変わったと思います。
それ以降 タンゴが廃れる時期 ってーのが巡ってこなくなったと
思いますもん。
爆発的に人口が増え続ける というわけではないけれど
安定してて ジワジワ やや上昇 みたいな状態を保ってますもんね。
もちろん、そして ヌエボは いつまでも「新しい」ものではなく
また「古い」ものの良さを見たり、
人々の好みがあれこれ移動しつつ 今ではこれだけ多くの人々に
愛されているのだから
タンゴ なかなかですな。
ところで、最後にちょっと自慢話です。
冒頭で少し名前を出した
ピアソラ楽団のバイオリン奏者 アントニオ・アグリですが
彼は 98年に 66歳の若さで亡くなりました。
亡くなる前年、確か97年のことだったと思うのですが・・
バンドネオンの大御所 ネストル・マルコーニとともに来日し、
実はわたくし
マルコーニとアグリという夢のような演奏で一緒に舞台に立たせて
頂いたことがあります。
確か NHKホールだったと思う。
めちゃくちゃ緊張して 何度もリハーサルさせてもらって
怒られたの(笑)
アグリさんは 静かな方だった。
マルコーニさんは ちょっと怖かった(笑)
最高に貴重な体験をさせてもらった お宝ものの思い出です。
そんな機会をいただいたのも 師匠のお陰なんだよねーー。
明日も もう少しヌエボのお話を引っ張ります。
今度は音楽のヌエボではなく、踊りのモデルノを。
超めちゃくちゃかっこいい動画をお見せしますからね!
乞うご期待!!
また明日。
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音楽も踊りも どちらも ヌエボブームが広まりました。
特に、チチョとセバスチャンがヨーロッパで広めた影響は
かなり大きく、
パリ・オランダ・イタリアあたりで「初めてタンゴ習いました」って
人たちの多くが ヌエボからスタート ということが起きちゃったりして
なんともはや(笑)
ただ、その後、ナベイラや チチョが
「 へんな踊り方でクネクネしてたんじゃダメ。
ちゃんと基礎から古典的なタンゴのリードフォローを学んだ上でじゃなきゃ
へんなんなっちゃうよ」
みたいなことを 盛んに言ってましたけどね(笑)
でも、ほんとそーなんだよね。
切り離す必要はないけど、基本的なリードフォローが出来てないうちに
可動域の大きなガンチョや サカーダをクネクネと入れるのは
危険なだけだもんね。
と、まあ このように 本当に完璧な流れで
タンゴが世界中に広まっていったブームの火付け役として
ピアソラが存在していたことがわかります。
世間に認められる前に亡くなってしまわれたことは残念ですが
この役目のためにしては あまりにも多くの素晴らしい曲を残してくれました。
ブエノス・アイレスの中でも タンゴは流行の波が激しく
私がタンゴを始めた95年頃は ブエノス内でも まったくタンゴが流行ってなくて
街のCD屋さんでも タンゴのCDは奥で埃かぶってるような感じでした。
ミロンガだって じじーばっか でしたよ。ほんと。
なんでもそうだと思うのですが、文化や芸術というのは
若い人が面白がって関わってくるようになって広がりが生まれるものだと
思うんですね。
で、タンゴも ピアソラの絶妙な役割あってこそ
五反プ
あ 間違えた
ゴタン・プロジェクトが出てきて
チチョやセバスチャンがカッコよくて
若い人が一気に増えて・・・
それで 99年あたりから タンゴ文化は世界的に
大きく変わったと思います。
それ以降 タンゴが廃れる時期 ってーのが巡ってこなくなったと
思いますもん。
爆発的に人口が増え続ける というわけではないけれど
安定してて ジワジワ やや上昇 みたいな状態を保ってますもんね。
もちろん、そして ヌエボは いつまでも「新しい」ものではなく
また「古い」ものの良さを見たり、
人々の好みがあれこれ移動しつつ 今ではこれだけ多くの人々に
愛されているのだから
タンゴ なかなかですな。
ところで、最後にちょっと自慢話です。
冒頭で少し名前を出した
ピアソラ楽団のバイオリン奏者 アントニオ・アグリですが
彼は 98年に 66歳の若さで亡くなりました。
亡くなる前年、確か97年のことだったと思うのですが・・
バンドネオンの大御所 ネストル・マルコーニとともに来日し、
実はわたくし
マルコーニとアグリという夢のような演奏で一緒に舞台に立たせて
頂いたことがあります。
確か NHKホールだったと思う。
めちゃくちゃ緊張して 何度もリハーサルさせてもらって
怒られたの(笑)
アグリさんは 静かな方だった。
マルコーニさんは ちょっと怖かった(笑)
↑ この人がマルコーニさん
↓ この人がアグリさん
最高に貴重な体験をさせてもらった お宝ものの思い出です。
そんな機会をいただいたのも 師匠のお陰なんだよねーー。
明日も もう少しヌエボのお話を引っ張ります。
今度は音楽のヌエボではなく、踊りのモデルノを。
超めちゃくちゃかっこいい動画をお見せしますからね!
乞うご期待!!
また明日。
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